「ハァ──ハァ──ハァ──!」
森の中に散らばった、小さな枝木や落ちた枯れ葉を、縦横無尽に後ろに蹴り上げながら、セティナと仮面の男はウルジの森を走り抜ける。
死の淵に立った事、そして荒れた道を全力で走る──なんて事に慣れていないセティナの呼吸は、仮面の男に比べてわずかに荒くなっていた。
セティナの瞳に、褐色肌の男の背中と──そして肩から吊るして腰の後ろで揺れている、グルグルに巻かれた黄土色のラグマットのようなものが映る。
ボルクスとエルミーナと名乗った彼らも、何者かはわからないが、見た目だけで言えばこの顔の見えない仮面の男も十分に怪しい。
それでも死を救ってくれた、この仮面の男の背にただついて行く事だけが、セティナにとってできる唯一の選択肢だった。
そんなセティナの不安を嗅ぎ取ったかのタイミングで、仮面の男が音のこもった声で話しかけた。
「──あんた、名前は?」
「ハァ──ハァ──セティナです!あの、先ほどは──」
「オーケーだセティナ。俺はキース、キース=カミナってんだ。礼なら逃げ切ったあとでいいぜ」
キース=カミナと名乗った男の名前に、セティナの記憶の奥底でかすかに引っかかった。
(……カミナ──?どこかで──)
「あの、あなたは──」
──狼の遠吠えのような音が森に鳴り響いた。
森のはるか後方から聞こえたその鳴き声はどこか不気味で、その死の旋律のような咆哮にセティナの背中は悪寒のように震えた。
ほんのわずかに緩んだ神経が、再び研ぎ澄まされる。
「オイオイオイオイ、諦めのわりぃ奴らだなぁ!?」
「あの──キースさん!どこに向かって──」
「わからん!迷子だからな!」
「──え」
突然、セティナは大きく土を踏み込むようにその足を止めた。
放棄していた思考をすぐに巡らせ、方角を確認をした。
向かう先は──逃げてきた西の川岸ではなく、北のヴィラノ修道院へ戻る道でもなく、南──セティナは突然方向を変えて走り出した。
「こっちです!キースさん」
キースが滑り込むようにその場にとどまり振り返ると、キースもセティナについていくようにその進路を変えた。
「え?あっ?オオ!」
セティナは必死に頭の中で、するべき事を画策していた──
あの方々の狙いはどう考えてもわたし自身──北に戻ってヴィラノ修道院に助けを求めて、あんな者たちを招き入れるわけにはいかない。
このまま南下して、ホルン方面に一時的に逃げ込んで──どこかに身を隠すのがきっと最良。
ミリィやマザーエレアが聞いたら怒るかな……ごめんなさい、でも──
彼女は自身の安全よりも、自身が大事だと思う人間に被害が及ばない事を優先した。
はがゆさか、覚悟のあらわれなのか、走りながらもセティナはその手を強く握りしめる。
暗い森の奥から、前のめりの姿勢で少女が駆け抜ける。
それを追うキースと名乗った仮面の男も、山道に走り慣れてるのか、どこか余裕げに跳びながらも素早く駆け抜ける。
2人の草木を踏み蹴る足音がその場から遠のいていくと、今度は奥から重い足音がが聞こえる。
不気味に眼を光らせ、徐々に近づくその大きな獣。
土に埋もれたシアンの木の根さえも、引きちぎりそうなほどの猛スピードで、紫の狼獣はその大きな口元からヨダレのようなものをまき散らしながら、2人を追いかけていった。
重い足音が徐々に近づいている事を、キースの耳は聞き逃さなかった。
「おい──なんか来るぜ!」
セティナが横目で後方を走るキースの言葉に耳を傾けると、足元の注意が甘かったせいか、大地に埋もれているシアン木の根に足をわずかに引っかけた。
軽くつまづいただけだったのか、大きく転ぶこともなく慌てて体勢をととのえる事ができたが、その際に肩が耳に触れたのか、挟みが甘かったのか、セティナが右耳につけていた薄い水色の涙ようなイヤリングが宙に浮いた。
「あ──」
水色のイヤリングは、後方から迫るキースの横をまるで通り過ぎるかのように、土の上に落ちていった。
セティナは慌ててその足を止め、後ろを振り返る──
それはヴィラノ修道院で、友にもらった大事なイヤリング。
ヴィラノ修道院で交わしたミリアリアとの会話が、走馬灯のようにセティナの脳裏によぎった──
「セラ、私はあんたの事を家族だと思ってる。立場も違えば出会い方も違う私たちだからこそ、家族のようになれた」
「私も。私もミリィに会えて本当によかった」
「離れても、会えなくなってもその事実は変わらない。だから胸を張って別れよう──」
*
命と等価なものかと問われれば、間違いなく比べるまでもないだろう。
友情の形にすがるものかと言われれば、そんな目に見える形などに固執するべきでもないだろう。
しかしセティナは、その目に見えるものを捨てきれなかった。
足を止め、神妙な顔をしているセティナに、走り抜けながら声をかけるキース。
「おい、なにしてんだ!?早く!」
身の危険が迫っている事がわかっているにも関わらず、セティナは迷わず地に落ちたイヤリングに向かって飛び出した。
「──はぁ!?」
キースと呼ばれた男の表情は仮面で見えないものの、唐突に逆走し始めたセティナを見て驚愕した。
逆走しながら土の上に落ちたイヤリングに必死に手を差し伸べ、指先が触れた時──前方から重い足音が近づく。
「ッ──!?」
「はやく!」
セティナは急いでイヤリングを手に取り、襟(えり)から胸の中のポッケにしまうと、大きく手であおっているキースに向かって全力で走り出した。
するとその背後には、すでに目視できる距離へと紫の狼獣が迫っていた。
(オイオイでけぇ──)
目を赤く光らせた大型魔獣規模の獣がセティナの後方から迫る。
(逃げ切れない──なら)
「振り返るな!来い!」
戦闘体勢に入るべきか頭の中で画策するセティナの思考を両断するかのように、キースと名乗る仮面の男は大声で叫んだ。
このまま逃げ切るのは無理だと考えたのか、キースは獣に追われるセティナへと体を向け、肩から吊るして巻かれたラグマットの中へと手をつっこんだ。
振り返らず──キースの元へ全力で駆け走るセティナ。
そしてその後方からは突進するかのような勢いで、紫の狼獣が押し迫る。
赤い目と牙から漏れるヨダレのようなものが、今にもセティナを食い殺そうと紫の狼獣の口が開き始め、尖った大きな牙を見せた。
セティナがキースの元に近づくと、叫ぶ──
「横に跳べ!」
その声に反応するように、セティナはキースの横をすれ違う間で、両足で踏み込み横の茂みの中に大きく跳んだ。
勢いのとまらない紫の狼獣が、前方のキースを目掛けて襲い掛かる──
「リゾルテ、──シュヴァット」
キースの足元に、うずまく黒い円陣が浮かび上がる。
おかまいなしに全力で詰め寄る狼獣は、キースを噛み殺すような勢いで大きく口を開き、その牙がキースに届こうとしたその瞬間──
紙一重のようにキースは横に跳ぶと、大地から禍々しい黒い刃が浮かび上がり、その刃が紫の狼獣の脚を貫いた。
狼獣の悲鳴のような咆哮が森に鳴り響く──
(チッ足だけかよ!)
断頭台のギロチンのような刃が、狼獣の脚に突き刺さり、その肉の隙間からは紫色の血のようなものが垂れ流れている。
妖怪しい刃は、再び黒い円陣の中へと消えていった。
キースが狙ったトラップ。
それは闘牛士のように獣を誘導し、自分の足元へと通過させるためだった。
しかし脚に攻撃が通っただけで、致命傷には至っていない。
「──ミスト、フュリ、ウィル、タウラ」
小さく声が聞こえた。
茂みの中から影が跳びあがった──横に跳んで隠れたセティナだった。
レイピアの剣先の指でなぞり、着地とともに傷のないもう片方の狼獣の脚へと突き刺した。
「リリース!」
突き刺した剣先に青白いエーテル光が収束すると、まるでそれはキースの技を盗んだかのように、今度は尖った青い氷結の刃が大地から狼獣の脚を突き上げる。
前両足が傷つき──後ろ両足でもがくように苦しむ狼獣は、大きく威圧するように咆哮した。
──そんな狼獣の背中に、キースが飛び乗った。
セティナの目に映るその仮面の男は、さきほどまでは持っていなかったものを持っていた。
いや、持っているという言葉では間違っているのかもしれない。
剣──のはずだが、握る柄のグリップ部分が、まるで意思をもっているかのように動いている。
複数色の軟体のスライム魔獣が、まるで触手化したかのように、キースの手──そして手首に掘られた入れ墨まわりから腕に届くまで、動く触手のようなものが褐色の手にまとわりついていた。
セティナはそれが呪いによるものなのか、魔剣なのか魔獣なのかすらも理解はできなかった。
仮面の男は自分の足元の狼獣を見るように下を向いていた。
キースは何も言わずその妖妖しい剣を大きく振りかぶり、狼獣の首元を目掛けて大きく突き刺した。
狼獣の小さな悲痛な叫びが2人の耳に入ると、魔獣は爆発するかのように黒いエーテルのような光となって拡散した。
地面に着地するキース。
魔獣なら、本来その黒い霧は空に還るというのが鉄則だが──
あろうことかその黒い霧はキースのもつその剣の刃に収束し、まるで剣に吸収されるかのように消えていった。
キースの剣に絡みつく触手は、まるで喜びを表しているかのように、さきほどよりも激しく絡み、うねりをあげていた──
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